連絡船 ── 航行記(第一期・第二期)



(四)はじめに ──
    新刊・ベストセラー、宣伝、書店員……

 反復しつつ(たぶん私はいつも同じことしかいわないだろうと思います)ゆっくりと進んでいくつもりです。
 先に私はこう書きました。「新刊やベストセラーを中心に採りあげることはしません。新しかろうが古かろうが「よい作品」を採りあげるというだけです。作品に「よい・悪い」はある、それを自分の「好き・嫌い」とごっちゃにしてはいけないというのが私の考えです。」

 新刊やベストセラーに「よい作品」の含まれる可能性はほとんどない。特にベストセラーといわれるものについていえば、たくさんの読者に「好きだ」といわれる作品であるにすぎず、それは「よい作品」であるということではほとんどない。新刊に関しては、そのなかにはわずかに「よい作品」も混じっている……。
 私がなぜ「新刊やベストセラー」という括りを用いたかといえば、新聞でも雑誌でもテレビでもラジオでも、またネットでも「新刊やベストセラー」の話題には事欠かないだろうからです。そういうものを話題にしたいひとは必ずいますから、私がそれに参加する必要は全然ないということです。

 私には、「新刊やベストセラー」というと、すぐに「宣伝」ということばが浮かんできます。あるいは、「みんな」ということばが。そうして、「宣伝」は一時に「みんな」を誘い込もうとするわけです。「宣伝」のかかっているわずかな期間に「みんな」を誘導するということです。私はその「わずかな期間」と「みんな」というのをほとんど憎みさえしているのじゃないかと思います。私がその反対に持ち出すのは、「いつでも」と「てんでんばらばらに」ということです。これに限らず、なににもせよ、ある一定の期間に「みんな」が一斉に動き出すようななにかがあったら、もっと警戒すべきなんじゃありませんか?

 さて ──、出版社は新刊を中心に宣伝をかけます。新刊時こそ最もその本の市場在庫が多いからです。市場在庫の多いうちに宣伝をかけて売ってしまおうとするわけです。
 そこで、出版社が刊行前の本のゲラを書店員に読ませて感想を求めることがあります。書店員の感想がその本の発売時の宣伝に使われたりもします。そういう作品のほとんどには共通した傾向があるんですね。いや、最近ますます顕著になってきているこの傾向については、上品に触れるというのはやはりよくないだろう・むしろ悪いことだろうとさえ思えます。これについては後でまたいいましょう。で、私のところにもそういったものが送られてくることがあります。たいていは断わりますが、それでもいくつかのゲラを読んだことがあります。読むと、とにかく感想を送ります。たとえば(だいたい五年ほど前のものですけれど)こんなふうです。

 原作がどうであろうと、こちらに日本語で提出された作品として、この『*****』は非常に拙劣なものだと思いました。この日本語訳で読む限りは、です。
 まず、私の考えかたを先に示しておきたいのですが、小説作品において重要なのは、「なにが描かれているか」ではなくて「どのように描かれているか」なのだと思っています。この「どのように」をクリアしていない作品は結局「なに」がいくらすばらしくても作品として失格なのです。「どのように」が「なに」を生かしも殺しもします。
 翻訳者は、原作者が「なに」を語っているかだけをみていればいいというのではありません。原作者が「どのように」語っているのか、なぜそのように語っているのか、まずはそれをきちんとみきわめていなくてはなりません。これは翻訳者が原作をどのように読みとったのかが問われるということです。しかも、翻訳者は原作の一読者ではありますが、彼の手になる翻訳作品の作者の役割をも担わなくてはならないはずなのです。この点で、『*****』は翻訳者が単に原作の一読者で終わってしまっていると思います。おそらくこの翻訳者は原作を読んで感動したのかもしれませんが、それを日本の読者に伝えるためには、自分が原作を再創造しなくてはならないということがまったくわかっていないのだと思います。彼は自分が原作の「なに」に感動したかということだけを夢中になって追っているので、それが「どのように」描かれていたからこそ感動に結んだのだということを忘れてしまっている、あるいは、最初からそういうことには思い及んでいなかったのです。翻訳者は原作という楽譜を置いて、聴衆の前で演奏しなくてはならないのです。どういう音符が楽譜に並んでいるかを説明するのではありません。
 この翻訳者は文章の書けないひと、ことばというものに無頓着なひとだと思います。読んでいる間ずっと「まあざっとこんな意味よ」という通訳を受けているような気がしました。彼の語彙は貧困で幼稚なものばかりだと思います。一般の読者にむけてかたい表現を避けようとしたのだという意図があるのかもしれませんが、もしそうならば、その場合にこそより豊かな語彙と表現力が必要とされるのです。全体がなにかのっぺりして立体感のない、幼稚な話しことば風の文で埋められています。しかもこれは、文章全体の構成も考えずに、生徒が宿題のために一文単位で辞書を引いたまま訳を出したようで、とても他人に読ませるための訳ではないと思われるのです。

 ── 一部だけを書き写してみました。このつづきで、私は翻訳全体を最初からやりなおすだけではたぶん駄目で、翻訳者(私はゲラを読んだ時点で、翻訳者が誰なのかを知りませんでした)を替えなくては無理だと書き、さらにこんな翻訳を通してしまう編集者はいったいどうなっているのか、と噛みつきもしました。実際にそう書いて、出版社に送りました。で、それからどうなったかというと、この作品は結局そのまま出版され、けっこう売れもしましたし、おまけに「課題図書」にも選定されたんですよね(あの「課題図書」っていうのは、いったいどういうひとが選定しているんでしょうか?)。この作品に感動したなどと書いて、表彰されたひともいるはずなんです。

 また、べつの出版社のあるゲラ(これも翻訳もの)を読んで、書き送ったメールも引用してみます。

 ****(注 作者名)の作品を読むのは初めてだったのですが、すみません、あきれてしまいました。こんなひとの書くものがなぜたくさん読まれているのか理解に苦しみます。世のなかの大多数のひとは「文学」なんて求めていやしない、ということなのでしょう。ここには作者自身にとっての予想外の要素や展開というものが一切ありません。こんなふうにいうのは、作者自身にとっても不可解で驚きであるようななにか、登場人物たちが作者の手を離れて勝手に動きだすというようななにかが非常に大事だと思っているからなのです。そうして、この作品は単に「成功哲学」普及のためのお話・宣伝・お説教にすぎません。あらかじめそのことが決まっていますから、作品内で「成功哲学」が激しく動揺するということもない。極端ないいかたをすると、「成功哲学」を描こうとして書きはじめた作品が、いざ書き進めていくと「反・成功哲学」の作品に仕上がってしまった、というようなものが「文学」だと思います。しかし、ここでは作者にはなんの試練もない。彼はただうまく書いただけです。うまくということだけを考えていればよかったわけです。
 そもそも「成功・不成功」「勝ち組・負け組」なんていう尺度はもっと疑わなくてはならないものなのです。それを疑うのが「文学」です。
 ── というのが私の感想です。もっとも、こういう作品をよろこぶひとが大勢いるのは承知しています。しかし、こういうよろこばせかたばかりしていると、ますます世のなかの読書は衰退していくことでしょう。ということは本も売れなくなっていくということです。

(私はいまのふたつの作品名を書きませんが、書かないことで私の主張が正しいものであるかどうかの判断がつかないじゃないか、と思われた方はその点で正しいと認めます。しかし、ここで私のいいたいことは、まず、私がどういう観点から作品の「よい・悪い」を測っているかということに触れたかったのがひとつ。そうして、とにかく私は、私に「読んで、どう思ったか聞かせてくれ」といってきたひとにははっきり自分の考えを告げているのだ、ということを知ってほしかった、ということです。これらふたつの作品のひどさをもっと詳細にいいたくもあります。しかし、先の添削についての話と同じで、対象が「ひどい」もの、書き手に確固とした核・芯のないものであって、本来これを対象とすること自体がばかげているというほどの場合、つまり、対象がどこから突っ込んでも「ひどい」という場合に、批評がどこまでできるものでしょうか? これを相手にまともに批評を始めたら、当の「作品」以上の分量・労力が費やされることになるのじゃないでしょうか? だから、批評は、まず一定レヴェル以上のもの ── 少なくとも、書き手に確固とした核・芯のあるもの ── に対してのみなされることになるはずです。あまりにも低レヴェルのもの ── とはいえ、私の読んだ二点については、小さくない、大きいといってもいい出版社から現実に出版されているわけなんですが ── にするものではないということです。とりあえず、私がそのように「ひどい」と思ったということだけを知っておいてください。)

 ── というように、「新刊」にはこういうものがあるわけです。こういうものに出版社は宣伝をかける。書店に販売促進の働きかけ ── 読んでみて、あなた(書店員)自身のことばでこの本を推してください ── をする。そして、おそらくほとんどの書店はその働きかけに応える(出版社の意図に添う形で)……。
 これは本来逆であるべきなんです。書店員自身のことばで本を推すのならば、本の選定は書店員がすべきなんです。書店員が(実際に自分が読んで「よい」と思ったから)自発的にこの本を売りたいといいだすべきで、出版社がそれに耳を傾けるべきなんです。ということは、時間的な要素を考慮すれば、それは新刊ではなく、既刊(とっくに出版されており、もしかすると、すでに忘れられているかもしれないもの。しかし、書店員が自主的に読んで、ずっと「よい」と信じつづけているもの)からなされるということになる ──「ヨーイ、ドン」で読んだものでは駄目だという ── 理屈です。
 とはいえ、私が自分の勤める書店でその『*****』やその次の作品を置かなかったかというと、置きましたし、『*****』はかなり売りもしました。売れるのだからしかたがない、といまはいうしかありません。いまやその当時思ってもみなかったほどの苦痛にもなっているこの矛盾を私はそのうち解消しなくてはならないと思っています。そのための手段のひとつが、これから開設しようという私個人のホームページになります。

 多くの書店員がこういうことをいいます。自分が「売りたいもの」と「実際に売れるもの」とは違う。そして、書店のすることが商売である以上は、いうまでもなく後者が優先されなくてはならない。それを私は四十歳を過ぎてなお納得できずにいます。

 先に挙げたふたつの翻訳もののゲラの話ですが、ああしたものを送られる書店員が私ひとりのわけもありません。私以外にも世のなかのたくさんの書店員が読むわけです。それで、彼らはいったいなにを出版社にいっているんでしょうか? もし自分には、渡されたこのゲラを読み解く力がないと思うなら、そのことを出版社に伝えるべきだし、読み解いて、ひどいとかばかげていると思ったなら、それをきちんと伝えるべきなんです。それは自信をもってすべきなんです。でも、おそらく現実に多くの書店員はそうしていないだろうと思います。なぜか? 自分を出版社より下だと考えているから? 自分が感想を述べるなど僭越だと思っているから? どんなものにせよ、結果的に売れればいいし、自分の勤める店の宣伝になればいいから? あるいは、もし生意気なことをいったりすれば、もうゲラを読ませてもらえなくなるかもしれないから? 配本が少なくなるかもしれないから? ……
 いや、もしかすると、たとえば先にあげたふたつの翻訳ものにしても、心底素晴らしいと思って、店頭でも派手に並べたのかもしれません。
 このごろは書店員を「本読みのプロ」なんてふれこみで宣伝に使う出版社も少なくありませんが、書店員が「本読みのプロ」のわけがないでしょう。いや、そもそも「本読みのプロ」っていったいなんなんですか? こういう安易な形で書店員を称揚するメディアを信じてはいけません。
 結局のところ、本を読むことのできるひとと、できないひととがいるというだけじゃないでしょうか? 書店員のなかにも本を読むことのできるひとと、できないひととがいる、というだけのことです。これは、本の宣伝(帯や広告などで)に協力している、名の知られた作家や文芸評論家にも当然にいえることで、このひとたちのなかには、おそらく、ゲラを読むことを承諾した時点ですでに、その作品が駄目な場合でも仕事を断わらない(断わるなど思いもしない)、つまり、自分は「この作品を褒めてください」といわれたから褒めるのだ、というひとがいますね。あるいは、そんなのは優しすぎる見かたで、ほんとうは駄目な作品を見抜くことすらできないのかもしれませんが。そういうひとたちの、こちらがあきれ返ってしまうような文章が氾濫しています。
 そうして、出版社が書店員をどう位置づけているかというと、いまのところ、単に手っ取り早い、簡単に囲い込みのできる「読者モニター」としか考えていないのじゃないかと私は疑っています。書店員に送られてくるゲラにはある傾向があるといいましたが、それは表面上読みやすいもの、そうして、いわゆる「感動」「涙」に結びつくものなんですね。読者が全然「背伸び」をする必要のないもの、「チューニング」を全然必要としないものであって、どちらかといえば幼稚な・低級な作品 ── いや、「作品」とはまったく呼べないような代物ばかり ── なんじゃありませんか。「読者モニター」なんてきれいな感じでいいますけれど、私の考えでは、それは全然読む力のないひと・安易に涙を流せるひと(もっとひどいいいかたをすれば、ふだんは本などまったく読まずにいて、当然読む力もないために、その自分がせっかく読んだことの、いわば「元を取る」ことなしにはいられなくて、無理やり感動することに決めて涙を流すというようなひと)を対象に設定された基準にすぎません。圧倒的多数のそういった読者・購買者を想定したのが「読者モニター」です。そして、当の書店員もそのつもりでいるのじゃないでしょうか。で、それに甘んじているなどと考えもしていない。自分に本を読み解く力のあること、あるいは、ないことの自覚がない。そうして、その自信のなさを悪用し、責任逃れをしている。というのは、自分の自信のなさを一般の大多数の読者にもそのまま当てはめている、すり替えを行なっている(どうせみんなも自分程度・あるいはそれ以下だろう)、ということです。私にはそう思えます。もちろんすべての書店員がそうだなどと考えているわけではありません。ただ、やはり大きい流れとしてはそうなってしまっているだろうと思います。業界紙のひとにいわれたことがあります。「あなたの考えていたのとはべつの方向に進んでいますね。しかし、それはそれで、とにかく書店員が発言する・発言できるというのはいいことなんです」というようなことを。それもすり替えじゃないでしょうか?

 そういう流れ ──「あなたの考えていたのとはべつの方向に進んでいますね。しかし、それはそれで、とにかく書店員が発言する・発言できるというのはいいことなんです」── は間違いではないか? もちろん間違いである、というのが私の考えです。
 間違いでも商売になればそれでいいじゃないか、その間違いを利用しろよ、ですか? いくら「よい作品」でも売れなかったものは所詮それまでのものなんだよ、ですか? みんながそれを読んで号泣できたものこそが素晴らしい作品なんだよ、ですか? 誰も自分の読む本に「よい作品」である必要なんか感じていないよ、ですか? 「よい作品」を見極められるような読者なんかに期待していたらベストセラーなんかなくなってしまうよ、ですか?

 ベストセラーなんかなくなってしまえ、というのが私の考えです。なぜなら、先に私のいったように、読者が、ほんとうに自分の必要な本だけを読むようになれば、つまり、それぞれ「てんでんばらばらに」本を選ぶようになれば、ベストセラーなんかの成立のしようがないはずだからです。

 この数年来いいつづけていることを、しばらく前(二〇〇五年)に、あるひとにメールで書き送りましたが、

 私は読者が変化するのを望んでいます。読者が変化するために必要なのは、書店が変化することです。書店が変化すれば、出版社も変化せざるをえないだろうと思っています。ということは取次もですね。私が夢想するのは、全国のどの書店もそれぞれまったくちがう品揃えをする、そういう書店のありかたです。客が新たな書店に足を運ぶたびに、まずはその店の品揃えを読みとる努力をしなければならないような形です。それがあたりまえになってしまえばいいと思うのです。どの書店に行っても同じ場所に同じ本が並んでいるということがなくなればいい。不可能は承知です。この夢想は全国的な大ベストセラーのなくなることを念願してもいます。しかし、それぞれ小部数ながら、いまよりもたくさんのアイテムが売れることになるはずではないでしょうか。
 私の考えているのは、「何を読んだらいいかわからない」などという読者がいなくなることです。そうして、自分の読む本は自力で選ぶということを常識にしてしまうことです。そういう読者が増加するほど作家の質も向上するはずだと思います。

 ……とまあ、そんなふうに考えつづける日々を送っています。いいですか、四十歳を過ぎてもこういう問題から逃れることはできません。まったく、思ってもみなかったことですが。
(二〇〇六年三月三十一日)
(二〇〇七年三月二十七日 改稿)
(二〇〇八年二月 改稿)

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